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教員インタビュー

今回ご紹介する先生は、世界社会言語センター所属の内海陽子先生です。JLCでは主として全学日本語プログラムとショートステイプログラムのご出講と教務に携わってらっしゃいます。

第22回 内海 陽子先生

教員は授業のあと、学習者が「何を学んだか」をつかめるおみやげを持たせよう。

インタビュアー(以下、I) 本日はお忙しいところ、インタビューをありがとうございます。まずご出身ですが、どちらでいらっしゃいますか。

内海先生(以後U)愛知県の春日井市です。祖父は船乗りで横浜に暮らしていたんですが、ジャーナリスト(朝日新聞記者)だった父が中京の担当だった関係で、私は大学までずっと愛知県です。

I)小さい頃は、どんなお子さんだったんですか?

U)兄と姉がいるので、特に積極的な姉の背中に隠れて、もじもじしているような子どもでした。

I)子ども時代の愛読書って、何か思い出すものはありますか?

U)そうですね...どうしてか分からないんですが、ユーゴの「ああ無情(レ・ミゼラブル)」は好きでした。

I)じゃあ、中高時代は文学少女だったんですか?

U)いえ、そんなこともなくて。中学ではバドミントン、高校ではノルディック・スキーをしていました。

I)ノルディック・スキー...。愛知県っておっしゃいましたよね?

U)そうです。私立の高校で、ちょっと面白い部活があって。夏場はローラースキーというので練習していました。

I)その頃から日本語教師を考えていたんですか?

U)ええ、多少は。春日井市というところいなかなんですけど、外国人に道を聞かれたりすることが多かったんですよ。で、そういうコミュニケーションが好きだったし、国語も好きだったので。それで祖母がいた横浜に出て、東洋英和女学院大学に進学しました。

I)そこで日本語教育を専攻したわけですか?

U)いえ、副専攻というほどでもなく8単位を取っただけで、それで養成講座にも少し通ったのですが、そちらもあまり良くなくて、結局まずは社会に出よう、と就職しました。

I)どんなお仕事をなさったんですか?

U)アパレル関係です。婦人服の営業をしました。3年間働いたんですが、やはり日本語教師になりたくて、一から勉強しようと大学院の合同説明会に行ったところ、横浜国大の金澤裕之先生(大学院教育学研究科)にお会いできて、国大の研究生になり、翌年、修士課程に入学しました。

I) 大学院では修士論文として何をお書きになったのですか?

U)従属節の終わりのスタイルシフトに関する研究です。

I) ここから日本語教育のキャリアがスタートしたわけですね。

U)そういうことになります。研究生のうちに授業デビューをして、まず横浜の...

I)横浜が多いですね(笑)。

U)ご縁でしょうか(笑)。横浜のみなとみらいにあるJICA(国際協力事業団)の研修センターで教え始めました。学習者は水産業や漁業の専門の人たちで、興味深い経験でした。それから、同じく横浜の(笑)日本語学校でも教えたのですが、ここには当時、専任教員として渋谷先生(先月参照)がいらっしゃいました。渋谷先生がトルコにいらっしゃる前で、いまは同僚としてご一緒させていただいているので不思議な感じです。

I) 大学院修了後もそちらで教え続けたのですか?

U)横浜の学校はしばらく続けたのですが、あと渋谷にある渋谷外語学院と、あと杏林大学の別科で教えるようになりました。横浜-八王子-渋谷とかなり互いに遠いところで1日に2箇所で教えたこともあるんですが、デビューも少し遅かったので、とにかくがんばりました。でもそうするうちに海外での教歴もあったほうがいいと思うようになり、2008年からはマレーシアで教えました。

I) どういうプログラムだったんですか?

U)JADプログラムというもので、芝浦工業大学や拓殖大学、東京電機大学などが作ったコンソーシアムによるプログラムなんですが、マレーシア人の学生がマレーシア国内で日本語の予備教育と2年の大学教育を受け、それから日本に来て3年次に編入する、というものでした。ODAでやっているプログラムなんですが、スケジュールがびっしりで、教員はみな同じコンドミニアムに住み、毎朝バスで学校まで送ってもらい、終わってからもバスが迎えに来て、帰宅後も仕事、という毎日でした。

I) ここのセンターの先生方は海外での経験を積まれた方が本当に多いですよね。その派遣が終わり、帰国なさってからはどうされたんですか?

U)教える場所を大学に移して、同志社大、中央学院大、東京電機大などで非常勤講師としてのキャリアを積み、本学の公募に応募して採用されて、現在に至ります。

I) 教えてきた機関も多いし、海外での経験もおありだし、確かにデビューは少し遅かったかもしれませんが、その幅広い経験がいまの本学での授業にフルに活かされているように感じます。じゃあ最後の質問なんですが、内海先生のキャリアの中で、心から納得したこと、あるいはこれから日本語教師を目指す人に伝えたいメッセージのようなものがあったら、教えてください。

U)そうですね、横浜国大の研究生として教え始めたころ、日本語学校の主任経験もある先輩の方がおっしゃっていたことで、印象に残っていることがあります。それは授業が終わったあと、学習者が「今日は何をしたんだっけ?」と思い出せないような授業ではいけない、必ず何かおみやげを持って帰ってもらうべきだ、ということです。いわば「一日一みやげ」みたいな考え方なんですが、いいなあ、と思い、私もなるべく実践するようにしています。

I) 短くても深いメッセージですね。今日は長い時間、本当にありがとうございました。

U)こちらこそ、ありがとうございました。

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